秋田県大仙市は毎年8月第4土曜日開催の「大曲の花火」で全国的に知られているまちです。「大曲の花火」は「全国花火競技大会」の正式名称が示すとおり、花火の競技会で、全国屈指の花火師たちが一堂に会し、日本一の座をかけて技と美をコンクール形式で競う場で、人口約8万人の大仙市に70万人を超える観客を集める国内有数のイベントでもあります。
大曲で花火が盛んになった歴史は古く、江戸時代のころまでさかのぼると言われています。
そこで、今回は響屋大曲煙火株式会社代表取締役社長で花火師の齋藤健太郎さんに大曲に花火が根付いた背景や大曲の人々が花火を通して「これまで築いてきたもの」「これから伝えていくもの」についてお話を伺いました。
※響屋大曲煙火株式会社のPR記事です。
「ここ仙北平野一帯は藩政時代から米の一大産地でした。大曲では花火が地元の農家や地主たちの道楽として親しまれていましたが、やがて祭りや行事などに欠かせないものとして定着していきました。特に諏訪神社の祭礼時には、少し見栄っ張りな気風も相まって、奉納花火が競うように打ち上げられました。そして1910(明治43)年にその余興として開催されたのが『第1回奥羽六県煙火共進会』でした。これが『大曲の花火』の始まりです」
その後、1915(大正4)年の第4回大会から現在の「全国花火競技大会」と名称を変え、全国規模の花火大会へと発展。中でも花火の先進地だった長野県や愛知県の進んだ技術を見て大曲の花火師たちは大いに刺激を受け、技術の習得に励んだといいます。
「うちの祖父と兄も『花火の神様』といわれていた長野県の花火屋さんへ修業に行っています。私も「花火の神様」の弟子に当たる山梨県の花火屋さんで修業しました」
大曲に関する文献上に花火が登場するのは、江戸末期の文化文政時代に菅江真澄(すがえ ますみ)が書いた地誌『菅江真澄遊覧記 月の出羽路』に描かれた挿絵です。この挿絵には丸子橋の上を行く眠り流し(七夕行事の一つ)の灯ろうとともに、後方の川原で打ち上げられている花火が描かれています。
『菅江真澄遊覧記 月の出羽路 仙北郡9巻』(大仙市立大曲図書館蔵写本)
(写真提供:大仙市)
また、大曲上大町の諏訪神社が所蔵する市指定文化財で明治初期の作と推定される『大曲村年中行事絵巻物』の中に花火の打ち上げの様子を描いた絵巻が登場します。
大曲村年中行事絵巻物に描かれた花火(写真提供:大仙市教育委員会)
大曲の「全国花火競技大会」は、「昼花火※1」と「夜花火」で構成されており、「夜花火」は尺玉を使った割物花火※2による「10号玉の部」のと大曲発祥の「創造花火※3の部」の2部構成で行われます。
競技の審査は「花火が題名(玉名)のイメージどおりか」「打ち上げ高度と開き」「音と色彩」「リズムと総合美」など、全部で6つの視点から採点されます。
そして優秀な花火には、大会最優秀賞の内閣総理大臣賞をはじめ、「昼花火」には秋田県知事賞、「夜花火」には中小企業庁長官賞と文部科学大臣奨励賞、「創造花火」には経済産業大臣賞が与えられます。特に内閣総理大臣賞が授与されるのは「大曲の花火」と「土浦全国花火競技大会」だけであり、まさに全国から選ばれた一流の花火師が競う日本で最も権威ある花火大会です。
また、競技部門とは別に大掛かりな「仕掛花火」も用意されています。
「昼花火」は、<煙竜(えんりゅう)>と<割物(わりもの)>の2種類で競技が行われ、色と形の組み合わせによる総合美を競い合います。<煙竜>は、染料を使って紅、黄・青・緑・紫などの色のついた煙(色煙)による模様やその変化の様子がポイントとなり、<割物>は夜の割物花火と同様、菊や牡丹を色煙や光でどう表現するかがポイントとなります。「昼花火」は昔から花火通の粋人が好む風流な花火とされており、現在「昼花火」の競技を行っているのは、全国でも大曲だけです。
第90回で「天空に連龍の舞」の玉名で優秀賞を受賞した昼花火
(写真提供:大仙市)
夜空に丸く広がる花火は「割物花火」と呼ばれ、日本の花火の基本形であり、伝統技術の集大成です。大曲の割物競技は10号玉2発で行われます。いずれも「尺玉」とも呼ばれる直径約30cmの大きさで、地上約350mの高さまで打ち上げ、大輪の花を咲かせます。1発目は<芯入割物>で、四重に開く「三重芯」以上が条件。最近では六重に開く「五重芯」も出てきています。2発目は<自由玉>で、「千輪」や「冠菊」など、色や形に工夫を凝らしたもので、斬新さが要求されます。
第89回で「昇曲付四重芯変化菊」の玉名で優秀賞を受賞した割物花火
(写真提供:大仙市)
大曲発祥の花火で、花火の規制概念にとらわれず、形態、色彩、リズム感、立体感を駆使し、題名(玉名)で喚起されるイメージ表現への共感と感動、あるいは意外性への驚きといった創造性、独自性、斬新さを高く評価する花火。題名からイメージされる主題を花火で表現・演出できているか、見る者が共感できるかが重要なポイントとされています。
第90回全国花火競技会で「輝く星へ感謝を込めて…」の題名で準優勝した創造花火
(写真提供:大仙市)
「大曲の花火」が人々を魅了してやまない理由の一つに、「創造花火」が持つ芸術性にあるといわれています。
「大正、昭和と全国有数の花火競技大会として人気を呼び、第二次世界大戦中約10年間は中止されたものの終戦の翌年には復活。その後も大いににぎわった大曲でしたが、1950年代半ばになると娯楽も多様化し、観客動員数も頭打ちになりました。そこで当時の大曲市は大会主催権を大曲商工会議所に委ね再生を託したのです。1957(昭和32)年のことでした。ちょうどその年から商工会で大曲の花火に関わり、後に『創造花火』の生みの親となったのが佐藤勲さんでした」
1963(昭和38)年第37回大会で初めて通産大臣賞を競う「創造花火」として打ち上げにこぎつけ、観客は初めて見る色彩や立体感、リズム感に惜しみない拍手送ったといいます。そしてその翌年から正式競技として「創造花火」が設けられ、観客数も10万人に達しました。
こうして花火の伝統を生かし、技を磨きながら革新を進めたことが奏功し、年ごとに観客数も増え、今日の「大曲の花火」の礎が築かれていったのです。
今年4月24日から29日まで、「第16回国際花火シンポジウム」が大仙市で開催されました。二十数カ国から花火関係者や学者ら約500人が集まり、花火に関する研究成果発表や商談会を実施。期間中、「大曲の花火」の会場と同じ雄物川河川敷で日本やスペインやカナダなど各国の花火が毎日打ち上げられ、多くの観客でにぎわいました。
響屋大曲煙火の花火(写真提供:渡部 剛)
スペインのピロテクニア・リカルド・カバレ,S.A.(RICASA)の花火
「シンポジウムの参加者たちは、『日本の花火はファイヤー・ワークスと訳す必要のない世界に冠たるHANABIだ』と言っていました。私たちの花火の芸術性と品質を認めていただけたのです。事実、シンポジウム以降、『売ってほしい』というオファーが絶えません。花火は世界中で楽しまれているエンターテインメントの一つですから、グローバルな市場に打って出る契機にしたいと考えています」と齋藤さんは言います。
「今年秋にはモスクワの世界花火大会に出品予定です。来年の平昌オリンピックの開会式でも花火を出品します。こうした世界的なビッグイベントの場合、安全面とクオリティの面から日本の花火が使用されることが多くなりました。新しい風が吹き始めていると感じています」
大仙市では、「花火のまち」そして「大曲の花火」という全国に誇れる地域ブランドの活用に向け、大仙市、大曲商工会議所、大仙市商工会と共同で、 2014(平成26)年3月「大仙市花火産業構想」を策定しています。
「花火産業」とは、「大曲の花火」を核に、花火製造などの工業分野に観光や商業、農業などの各産業分野に加え、さらに文化や教育といった要素を有機的・複合的に組み合わせることで相乗効果を生む
人口減少が続く秋田県。そうした中、県内はじめ北海道や九州からも『花火師になりたい』と大曲にやってくる若者がいるとはいえ、齋藤さんは将来的には危機感を感じていると言います。
齋藤さんは若い社員たちがやりがいを持って働きやすく働きがいのある職場づくりのため、機械化やデータ化することで、家内工業的な仕組みからの脱却を図り、チームプレーと安全第一を経営ポリシーに掲げています。
「現在25人の社員がいますが、当社の今シーズンの花火テーマ設定や音楽の選定、例えば色がグラデーション状やらせん状に変化する花火の色彩や配色など、社歴に関係なくみんなで話し合って決めています。1/1000秒単位での変化が可能な花火にはまだまだ開発の余地が残っています。伝統技術と最新技術をフル活用し、どんなものをつくるかなど、新たな可能性を追求しています。どんどん新しいものをつくらないと新しいスタンダードも生まれてきません。『伝統と革新』の両輪がしっかり回らなければ前に進まないのです」
打ち上げ本番に備え点火装置のチェックに余念がない社員と後ろから見守る齋藤さん
最後に「大曲の花火」の競技の見どころを伺いました。
「『昼花火』の競技は大曲だけですから、ぜひ見ていただきたい。<煙竜>はパラシュートで吊って、いかに太く濃い色煙を表現するかがみどころで、<割物>は色煙や光で菊や牡丹を表現するところが見どころです。 そして『夜花火』の10号玉の割物花火はやはり見応えがあると思います。 ドーンと上がって止まる瞬間を
花火の製造工程は大きく分けると4つに分かれます。
色を出す火薬や音を出す火薬、色の
半球形のお椀に星と割薬を込めていく作業。どんな色で開き色が変化するか設計通りに仕上げるには熟練を要する作業。
紙を均等に糊で重ね貼りします。これが均等に十分な強度を保つことで、打ち上げた時、真円の美しい花火になります。ここで貼った玉も乾燥室に持って行きます。
紙を貼り終え、乾燥室に置かれた花火玉
1979(昭和54)年秋田県大仙市生まれ。 1894(明治27)年創業の花火師一家の三男。花火師は夏が忙しいため、子どものころ夏休みにどこへも連れて行ってもらえず、花火師は大変な仕事だと思って育った。 やがて父の花火をほめる人たちの存在を知るにつれ徐々に意識が変化。 高校卒業後、山梨県で修業を積み、家業を継いだ兄の新山良洋さんの会社へ入社。 10年前、株式会社響屋を設立し独立。今春から兄の新山さんも合流し、気持ちも新たに響屋大曲煙火株式会社と社名変更した。 全国でも屈指の花火製造・販売会社に成長を続けている。 昨年の「第90回全国花火競技会」では急死した父へのオマージュを込めた「輝く星へ感謝を込めて・・・」の題名の創造花火を兄とともに打ち上げ、準優勝をいただいた。